


人口約30万人、福岡県久留米市は全国有数の「農業都市」だ。流量豊富な筑後川と肥沃な筑後平野を擁し、米、麦、野菜、果樹などの生産が盛んだ。農業産出額は約310億円と県内市町村トップ。全国26位(2023年、農林水産省まとめ)を誇る。
同市藤山町で株式会社フルトリエを経営する中村美紗さん(37)は、110年続く梨農家の4代目。2017年に就農し、5年後に法人化した。農園併設のカフェを含め、常時約20人のスタッフがビニールハウスや傾斜地の圃場など約3.8ヘクタールで梨、イチゴ、ブドウといった果実を栽培している。「収量のほとんどを敷地内の直売所と観光農園で販売します。地元にお金を落してもらいたいし、出荷すると、運賃や梱包の費用もかかりますから」。中村さんは完熟での収穫にこだわり、地産地消を徹底する営農スタイルを確立した。ランチも楽しめるカフェを併設し、多い日には、直売所に頻繁に来店する地元客、フルーツ狩りに訪れる観光客など1000人を超える人たちでにぎわう。
「フルーツのアトリエ」を意味する社名にふさわしい事業展開だが、同社は子育て中の女性の働き方改革や労働災害を防ぐ独自の施策など、人事労務面の先進的な取り組みでも注目されている。中村さんは久留米市の食料・農業・農村政策審議会のほか、労働者を雇用する全農業者の労災保険加入の義務化や加入促進策を話し合う農林水産省の「農業の労働環境改善に向けた政策の在り方に関する検討会」で委員を務め、積極的に発言している。

キックボクシングで痛感した労災保険の大切さ
「就農後、雇用が1人だったときから労災保険に任意加入していました」と話す中村さん。「人を雇うなら、人数や期間に関係なく、最低限の責任だと思います」と訴える。社員が3人に増え、社会保険の任意加入も考えた。「うちのスタッフが別の農家で働いていたとき、結婚相手の親に『社会保険もないのか』と反対されて、農業法人に転職したと聞きました。スタッフたちを不安にさせたくなくて、加入義務が伴う法人化に踏み切りました」。
こうした意識はどのように芽生えたのだろうか。中村さんは高校卒業後、愛知県の大手自動車部品メーカーに就職し、特殊刃具を研磨する部署に配属された。作業内容や使う工具が日々異なり、事故防止の安全指導は厳格だった。例えば、旋盤に部品や工具を固定させる治具の上げ下ろしには、昇降台を使うように命じられた。「重さはせいぜい10キロ。若手は『なんで?』と思っていましたが、足への落下や腰痛を防止するためでした。『労災事故を起こさない』という会社の固い意志を感じました」と振り返る。「農業界は安全対策ができていないな、と実感しました。すぐに実家で働いていたら、日々の作業の『当たり前』に慣れ、疑問すら感じなかったかもしれません」
中村さんは当時、趣味で始めたキックボクシングにはまり、21歳で退社。ジムで働きながらトレーニングを続け、23歳でプロデビューした。だが、頸椎のけがを繰り返し、引退した。トレーナーになり、生徒たちに手本を見せていた際、膝に相手役の蹴りが直撃し、靭帯切断と骨折で手術とひと月半の入院を強いられた。「選手のときとは違い、正社員のトレーナーとしてジムと雇用契約を結んでいたので、労災申請して治療費全額が賄われました。初めて労災保険を身近に感じ、ありがたさを痛感しました」。
中村さんは「選手復帰は難しい。これからも打ち込めることをやりたい」と実家を継ぐことを決意。2年間、AFJ日本農業経営大学校(東京都港区)で先進的なアグリビジネスを起こす経営戦略を学び、フルトリエの事業計画を練り上げた。「ゼミの先生に鍛えられ、先進的な観光農園を回りました。実家や地元を外から見る貴重な経験でした」。
ヒヤリハットを教訓に 現場の知恵で事故防止
久留米に戻った中村さんは、地域で頻発する事故に心を痛めた。農薬散布用のスピードスプレーヤー(SS)を運転中、首が枝に激突したり幹に挟まれたりする事故や、乗用草刈り機に乗ったまま転落する事故など、多くは農業機械の使用に伴うものだった。これは全国的な傾向で、農水省の「農作業死亡事故調査」(2024年)によると、農機作業中の死者は156人。原因別のトップで、全体の約54%を占めた。車輪にゴムバンドなどの資材が絡まって急停止したため、エンジンを切らずに外そうとして、突然の発進で指をはさんで切断してしまうなどの事故も後を絶たないという。


「SSは車体後方部に噴霧口があり、車体自体も長いので、ハウスの両端や回旋が難しい場所ではバックで散布しますが、カッパとマスクで視野が狭くなります。果樹畑は棚やパイプなども多く、慎重な運転が求められます。傾斜地の圃場も危ないです。雨水の流れなどで地盤は常にフラットではないので。うちも地盤を整備できるまでは、凹凸を熟知し、避けられる父親しかSSには乗れないですね」
中村さんは、事故防止に独自のアイデアも取り入れている。「剪定や枝の管理作業で全員が使う」という電動ハサミは、切れ味抜群で腱鞘炎を防止できるが、枝を持つ反対側の手に刃が触れれば、指の切断などに直結する。フルトリエでも、気づかずに刃が当たって手袋を切る「ヒヤリハット」が続発した。そこで中村さんは、「反対側の手には通常の剪定ハサミを持ち、枝ははさみでつかみ、自分の指はつかわないことを徹底しています」。安全を守る電動ハサミと剪定ハサミの「二刀流」だ。
安全対策の伝達も工夫している。フルトリエでは、スタッフが家事や育児と仕事を両立できるように、出社時間を定めていない。業務連絡は朝礼ではなく、グループLINEで該当者に直接行う。中村さんは自分が作業に立ち会えないときや、まだ慣れていないスタッフが作業に入る際、安全上の注意点を「○○に気をつけてね」と実演し、2~3分ほどの動画にして担当者へ送るという。「動画は相当たまりました。果樹は年に1度の作業も多く、危険なところを忘れがち。動画は翌年以降も使えますね」。単発のアルバイトには、自己流による事故を防ぐため、詳細な指示書を手渡す。
それでも、労災事故やヒヤリハットは起こる。ベテラン社員が加工用のイチゴを保管するマイナス26度の冷凍庫で転倒して骨折した。雨で濡れた靴が凍った床に張り付いたことが原因だった。ハウスのビニールの張り替えも「転落やビニールをつかんだまま強風で飛ばされたりするので危険です」。こうしたリスクは「圧倒的に男性に多い」という。体力に自信があり、つい無理をしてしまうからだ。
熱中症の予防も大きな課題だ。暑くなると、草刈りや作物に寒冷紗をかけるなど作業量はグンと増えるが、女性スタッフが多く、観光農園なので、早朝出勤やサマータイムの導入は難しい。「暑さの中で同じ作業を続けると、集中力が切れます。『もう少し、切りのよいところまで』は一番危ない」。中村さんはスタッフに積極的に声をかけ、一時中断や場所の移動、作業内容の変更を促している。

労災保険「若手から加入促進を」
中村さんは、労災保険の加入について、「まずは、雇用に熱心な若手の農業者に働きかけるべき」と強調する。「働く人は他産業と労働環境や待遇を比較しています。『労災保険がないようじゃ選んでもらえないよ』と話せばわかってくれると思います」。並行して「なかなか響かない親世代には、本人の特別加入から促すしかないかも」と話す。
労災保険の保険料率は農業で1000分の13。「社会保険料のように高額でないのに、『きっと高いんだろう』と具体的な金額を知らずに躊躇する人も多いようです。加入方法やJAなどの手続きサポートについて、もっとPRが必要ですね」と指摘する中村さん。「私たち雇用者側も、事故を起こさないことに加え、特に若い従業員のことを考えて、労災保険について真剣に考えなければ、と思います」と力を込めた。
